最近読んだ面白い本

『鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。』(川上和人 新潮社 2017)

翻訳不可能な面白さ。「翻訳不可能」とはどういうことか…それは読んでみれば分かります。私には書けないタイプの本。


『リバース』湊かなえ 講談社文庫 2017)

第三章の終わりで「彼女というのはあの人! そして後の方の事件の犯人はあの人! 根拠はすべて霊感!」という感じでピンときてしまい、その後は確証バイアスモードが混ざった読みになってしまってちょっと苦しかったのですが、それでも面白かったです。結果的に霊感は当たってましたが。

最後の一行がそれまでの問題の解決になっているのだけど、同時に新しい問題の始まりにもなっていて、それがとっても辛そう。

テレビドラマもあったようですが、そちらは見ていません。

最近読んだ面白い本

『豆の上で眠る』(湊かなえ、新潮文庫)

『わたしはヘレン』(アン・モーガン、熊井ひろ美訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)

両方とも小説です。独立に書かれたものですが、あわせて読むと面白いと思います。

私がこういう本に魅かれるのは「自己」の問題から離れられていないことの現れかもしれません。

もうすぐ出る本

『構文の意味と拡がり』 (天野みどり・早瀬尚子編、くろしお出版

私の文章も載ります。日本語の連体修飾を扱ってます。このトピックで書いたのは、何と20年ぶりです。

みんな、買ってね♪

面白い本を見つけました。

『大人のための国語ゼミ』(野矢茂樹)

例によって読み始めたばかりですが、非常に面白いです。書かれていることは認知意味論の観点からも興味深いです。

読み終わったら少し詳しくコメントを書く予定でいます。

大学院授業でやっていること

院授業の進行が異様に遅い鴨です。こんにちは! 次回補講です。16週目ですよ!ははは。

「遅いのは授業だけじゃないだろう」ですか。ははh

それはそうと、今日は私が大学院の授業で何をやっているか、何を考えてああいう授業をやっているのか、振り返って書いておきたいと思います。


院授業の目標とは

うちの大学の大学院(の中の私がいるところ)に関する文書をいろいろ見ていると、うちでは院授業(特に修士授業)の目標として大きく次の3つが想定されているようです。

  1. 学生の研究能力の育成・向上
  2. 学生への、専門分野についての高度な知識の伝達
  3. 学生の英語力の向上

上の1番目を図るのが人文系大学院の伝統的なあり方なのでしょうが、近年さまざまな客観的な事情や関係者の思惑によって、2番目、3番目に重点をシフトしようという動きもあります。

ちなみに私の修士授業のシラバスは主に1番目に言及しつつ、各週の授業計画を見ると2番目もバランス良くやろうとしているのだな、と読めるようになっていると思います。

で、実際にやっていることは、というと…

進みが遅いということは、2番目は見えやすい形では達成できていないということです。ごめんなさい。ただ、進みが遅いとは言っても授業中さぼっているわけではありません。何かやっています。何をやっているかというと、それはまあ、1番目ということになるわけです。

で、1番目で何をやっているかというと、文献読みの実践、ということですな。

そしてそれが非常に遅い。でも、遅いのにはわけがある。そういうことです。


文献を読むということについての考え方

授業で文献を読むという時に何を目標とするか。あるいは何を求めるべきか。考え方は2つあると思います。

  1. 知識の獲得
  2. 文献の読み方の訓練

そして上の項目でも述べたことからも明らかかと思いますが、私が院授業で目標としているのは2番目の「文献の読み方の訓練」です。

そして「文献を読む」ということに関して、さらに2つの考え方があるように思います。それは

  1. コードモデル的な見方/容器メタファー(導管メタファー)的な見方
  2. 推論モデル的な見方

1番目の「コードモデル的な見方/容器メタファー的な見方」というのは、次のようなモデルです。

  • 文章は容器、イイタイコトは内容物。
  • 著者はイイタイコトという内容物を文章という容器に入れて読者に渡す。
  • 読むということは、容器から内容物を取り出して受け取ることである。
  • 読者がその内容物をすべて取り出して受け取ることができれば、その文章を完全に理解したことになる。

このモデルでは、読者は筆者のイイタイコトを混ぜ物のない純粋な形で受け取ることができるはずであり、また「100パーセントの完全な理解」と「100%ではない、さまざまな程度の不完全な理解」があることになります。

2番目の「推論モデル的な見方」というのは、次のような見方です。

(本当は「推論モデル的な見方」ではなくて「共同注意モデル」みたいなものを考えたいのですが、それは別の話なので今日はちょっと。)

  • 文章を読む際には、読者の既有知識や願望等の感情が自覚的か無自覚かは別として不可避的に理解に介入する。
  • 文章を理解するとは、読んだ内容を既有知識と関連づけ、自分の知識の枠組みの中に位置づけることである。

という感じ。

この見方では、読者がどのような既有知識を持っているかによって理解のあり方は変わることになります。また、筆者と読者が完全に同じ知識を持っているということはありえないので、筆者のイイタイコトが純粋な形で読者に受け止められることは原理的にありえないことになります。また、どこかの時点で100パーセントの完全な理解に達する、ということもありえなことになるでしょう。

また、書かれている内容と読者の既有知識の枠組みが齟齬を来す場合には、

  • そこのところは無自覚のうちに却下されて忘れられる
  • そこのところは無自覚のうちに既存の枠組みに合うように変容されて取りこまれる
  • 読者が(自覚的にあるいは無自覚のうちに)知識の枠組み自体を変容させることによってそこのところを受け止める
  • 読者が齟齬を認識しつつ自分の知識の枠組みとの関連づけを行う

などが起こります。

さらに、読解においてはwishful readingとでも言うべき現象(wishful thinkingのもじり)が起こるようです。それは「この筆者にはこういう考えであってほしい、この人にはこういうことを書いてほしい」という願望が無自覚にでもあると、実際にその著者がそのようなことを書いているかのように思えてしまう、ということです。

「ラネカーは言葉の意味を本質的に視覚的なものだと考えている」みたいに…

人間の文章理解には容器メタファー的な見方で捉えられる部分と推論モデル的な見方で捉えられる部分と両方の面があるわけでしょう。ただ、読むということに関して普通の人が素朴に持っている見方は、容器メタファー的な見方だけになりがちなのではないかと思います。なので授業とかで推論モデル的な見方が必要になる事例を見せると驚かれたりするわけです。

念のため付け加えておくと、推論モデル的な見方を理解のモデルに組み込むということは、「文章理解は何でもありだよ」と考えることではありません。文章の中で著者が何を言おうとしているかという意図を理解しようとする努力は必要です。推論モデル的な見方が言っているのは、「著者が何を言おうとしているかを歪めて理解して分かったつもりになるということは普通に起こることだから、そこは自覚しといた方がいいよ」ということです。


「大丈夫」という発言

以前、「「何か質問とかありますか?」と聞いたとき、「大丈夫です」と答えてほしくない。」と書きました。その記事と今日書いてきたことと合わせて考えれば明らかかと思いますが、「(この文献に関して)質問・コメントありますか」という問いかけに対して「大丈夫です」と答えるということは、文章理解に関して容器メタファー的な見方だけで考えている、ということの現れと言えるだろうと思います。しかしながら実際にはその人自身の頭の中で、推論モデル的な見方でしか捉えられないようなことも起こっているわけでしょう。

そして、容器メタファー的な見方だけで考えている人が「大丈夫」と答える時の、実際の理解のありようはどのようなものなのでしょうか。

断定的なことはもちろん言えないわけですが、何というか、「う〜ん」という感じ(どんな感じだ!?)はあります。


そして授業で文献を読むということ

そして私が院授業でどのように文献を読んでいるか、あるいはどのように文献を読みたいか、あるいはどういうことを自覚化したいか(学生に自覚してほしいか)ということをあらためてリストすると、次のような感じかなと思います。

  • 著者が何をやろうとしているのか/何を言おうとしているのかを著者の立場から理解する。
  • 著者が実際に何を言っているのかを明らかにする。あるいは著者が(言うべきであったのに)言っていないことを明らかにする。
  • 文章のある部分と別の部分の関連を考える。
  • 著者のロジックや事実認定に問題がないかを考える。問題がある場合には、何をどのようにしたらいいかを考える。
  • 著者がどのような学問的な背景を踏まえて議論をしているのか、あるいはどのような隠れた前提があるか、考えたりコメントしたりする。本文・参考文献等で言及されていないことも含めてコメントする。
  • 著者自身が自覚的に踏まえているとは考えられな場合でも、著者の議論がどのような学問的な背景に繋がるのかをコメントする。
  • 著者の議論は本文で言及されていない他の現象や事実とどのように関連づけられるかを考える。
  • 著者の議論は同じ授業で前に読んだ別の文献の議論とどのような位置関係になるかを考える。

こういうことを、学生と議論しながら進めているわけです。

そりゃ〜時間かかるわな! という感じですよね。というかやり始めたらどこかで止めないときりがないですよね。

まあでも、こういうのもあっていいのではないかと私は思っています。ははh…


「文献読みの実践」というよりは「文献読みの実演」の方がいいかもしれません。私自身がどのようにその文献を読んだのか、ということ(の一部)を、ツッコミを入れまくるという形で示しているのです。(2016-7-25)

『外国学研究87 英語学基礎科目における教授方法の研究』から公開

英語学初学者向けに書いた文章を画像pdfで公開しておきます。

「Be Going Toはどのような仕組みで未来を表わすのかについて、たどたどしく考える」

「Even Ifに見るEvenの力」



リンク先を図書館のリポジトリに変更しました。(2016-7-23)

どういうロボットを作るかに現れる…

先日

http://d.hatena.ne.jp/shunpei/20140627#p2

で書いたように、ロボット研究の目指すものは(少なくとも私の理解では)「人間の頭の働きについての構成論的な理解」です。あるいはもう少し一般的に見れば「ヒトのヒトらしさとは何かについての構成論的な理解」です。

ということでロボット研究者に関していえば、「どういうロボットを作るか」に「ヒトのヒトらしさ」についてのその研究者の仮説ないし見通しが現れることになります。

そして今、『ロボットの悲しみ』を読みながら、なおかつ『記号創発ロボティクス 知能のメカニズム入門』の内容をきわめてぼんやりした形で思い出しながら、私があらためて自分の頭の中で再確認しているのは、「関係論的なアプローチ」に基づいて作られるロボットと「個体能力論的なアプローチ」に基づいて作られるロボットとではずいぶん違うんだよなあ、ということです。

特に世界とのかかわりにおけるコミュニケーションの役割についての見方がずいぶん違います。

個体能力論的なアプローチでは、コミュニケーションは、世界との切り結びを自力で確保していける能力を持つ自己充足的な個体同士の情報ないし感情のやりとりということになります。これは極端な話、他者とコミュニケーションなんかしなくても(最低限のレベルであれば)世界の中で生きていくことができるということになりそうです。

それに対して関係論的なアプローチでは、コミュニケーションは生きていく上で必須ということになります。自力では世界との切り結びを維持していくことができない個体甲がいる、そのような個体甲と世界の切り結びに個体乙が他者として介入することで、その切り結びが適切な形で維持されていくことに寄与する、それにより個体乙は「他者(個体甲)にとっての意味ある他者」として社会的なニッチないし存在意義を獲得する、さらには個体乙にとっての「自己」すらもそのようにして獲得されるものかもしれない、そのようなことが複数個体間で相互に行われることで個体たちが生きていくことができ、同時に社会が成立する…関係論的なアプローチでは、個体が生存していく上でコミュニケーションが必須ということになるわけです。きっと。

そしてどちらがヒトの実態に合っているかといえば、それは言うまでもないかなと思います。もちろん今日のこのエントリーには私自身の考え方のバイアスが影響していて、そのためにそのような印象を与えるだけのものになっている可能性もあるわけですが。

唐沢かおり氏論考についての感想

例の人文知の本の話で、唐沢かおり氏の「心はいかに自己と他者をつなぐのか」についての感想です。

この論考は他者理解についての社会心理学の知見を概観的にまとめていて、心理学専門以外の人が大きな見取り図を得るにはとても適した文章だと思いました。

私が自分自身の関心との関係で特に興味深いと思ったのは、同じ経験をすることの意味です。人は誰かと同じ経験をしたからと言って、その経験にまつわる相手の気持ちが正確に理解できるわけではないということ、ただ、相手が自分と同じ経験をしていると分かっている場合には、相手が自分の気持ちを理解していると思いやすい、ということを示した実験研究が紹介されています。つまり、他人とのつながりを維持強化するものとして大事なのは、「分かってもらってるつもり」だということのようです。

私自身は『知覚と行為の認知言語学』で、他者理解においては「相手のことを分かっているつもり」が大事なのではないかとスペキュレーションで書いていたのですが、唐沢氏論考で言われているのは「(自分が相手を)分かっているつもり」とは反対の立場の、「(相手に)分かってもらってるつもり」が大事ということです。

この、私が考えたのとは反対方向の「理解されてる感」が大事というのは、後知恵バイアスを思いっきり作動させて今になって考えると、私も気づいてもおかしくはなかったのです。この文章を以前読んで大学の授業の教材にしたりもしてたわけなので。でもまあ、思い当たりませんでした。

ということで、実はこの辺、今抱えていて不良債務化している某原稿にも関わる話なので、もう少しちゃんと勉強しなければいけないと思っています。

途中まで読んだ本

例によってやらなければいけないお仕事があるのですが例によって脳調不良で進まないので読みかけの本の話でも書きましょうかね。これです。これ、特に前半は認知に興味ある認知言語学者必読だと思います。

まあ「認知言語学」って言ってもいろいろあるわけで、「自分は英語の語法を細かく見つめたい」「対照言語学をやりたい」的な方向性の人にはそれほど参考にならないかもしれませんが、認知に興味のある認知言語学者にとっては必読だと私は勝手に決めつけてます。

一つ一つの論考についてのコメントはのちほど♪

理論言語学とロボット研究の鏡像関係

ふと思ったのですが、理論言語学(の一部)とロボット研究の研究者(の少なくとも一部)の興味の持ち方の推移というのは、鏡像関係にあると言っていい面があるような気がします。

ロボット研究をする人がどういう興味の持ち方からその道に進むのか、私は正確に理解しているわけではないのですが、テキトーなイメージとして、「鉄腕アトムとかドラえもんとかそういうのを見て「自分もああいうのを作ってみたい」という発想から始まる」「当初の問題意識は「モノづくり」ないしは工学系」という印象を私は持っています。しかしながら、(すくなくとも私の理解する限りでは)現在のロボット研究が目指すものは単なる(?)「モノづくり」ではなくて、「人間の頭の働きについての理解」です。ヒトの頭の働きつまり「認知」に関する研究において、一つのアプローチとして、「構成論的なアプローチ」つまり「作って動かしてみることで理解しようとする」という発想があります。そしてもう一方で「身体性の重視」つまり「ヒトの頭の働きは人が環境の中で他者やモノとかかわりながら生きる身体であるということを踏まえなければ理解できない」という発想があります。この二つの発想が交わるところにロボット研究があるわけで、そうするとロボット研究が目指す先にあるものが「人間の頭の働きについての理解」になるのは自然なことです。

ところで、「人間の頭の働きについての理解」を目指す学問は、もともとは人文学に入っていたわけです。哲学とか。

となるとどうなるかというと、「モノづくり」ないしは「工学系」の問題意識から出発したロボット研究者が、やがて、哲学などの人文系の研究に触れるようになる、ということが起こるわけです。

翻って理論言語学を見ると、どういうことになるか。言語学に興味を持つ人はどういう人かというと、(少なくとも「文系」と「理系」を分けて教育している日本の体制においては)「言葉が好き」から出発する人が多いのだろうと思います。その場合の「好き」は、実用的な観点からは「外国語を習得したい」「いろいろな興味深い表現を味わいたい」であり、もうちょっと学問的な(?)観点からは、まあ人文学的な興味なのではないかと思います。ところが理論言語学をやると、生成文法であれ認知言語学であれ「認知」の問題にぶち当たります。そして「認知」の研究である「認知科学」あるいはその一部としての心理学は、実験研究がメインです。脳研究とかと接点を持ったりするといわゆる「理系」と接点を持ったりします。さらに進むと「進化」の話に行ったりします。それは一方では比較認知科学とか進化生物学とかの話になるわけですが、他方では、そう、上に書いたようなロボット研究を含む構成論的なアプローチとかにつながったりするわけです。

となるとどうなるかというと、「外国語習得」とか「面白い表現」とかの人文学的な問題意識から出発した理論言語学者が、やがて、進化研究とかのいわゆる理系の研究に触れるようになる、ということが起こるわけです。

ということで鏡像関係かなあと思ったりするわけです。

そんなことを、言語学側の発言(関西言語学会 第39回大会のシンポジウム「言語理論と科学哲学」の藤田先生の話とか)と理系側の発言(『記号創発ロボティクス 知能のメカニズム入門』とか)を見て思ったりしたのでした。

というか前から思ってたかもしれないけど、あらためて思ったのでした。