いちおう完成
左方転移とか話題化とかのところを書きながら思ったこと。
Knowledge of Language is Knowledge!
ということであれば、つまり、言語知識とはけっきょく知識なのだ、それだけ独立したものではないのだ、ということだとすると…
それと並行することだと思うのですが、
言語行為とは結局のところ行為なのだ
というのを思いつくことにもなるわけで。
たとえば左方転移の場合、「注意の誘導」という行為、あるいは「共同注意的関わり」という行為が、指だのそれ以外の身体部分だの(だけ)ではなくて言語記号という表象を使ってなされた、ということであって。
そういう行為の場の中で起こっていることのうち、耳で知覚できる表象の部分を取り出して<形式>とし、行為のうち、その表象との結びつきが相対的に強い部分を取り出して<機能>とし、それが何かつながっているように感じられて<構文>といわれるわけなのでしょう。
要は何が言いたいかというと、「こういうのって、意味論の問題なの?語用論の問題なの?」とか、「左方転移を「構文」として捉えた場合、その「形」と「意味ないし機能」はどう記述したらいいの?」とか、そういう質問はあまり実りの大きなものではないだろう、という気がちらっとするのです。
構文というのは、行為の場の中で起こっているどろどろしたことのなかの、上澄みみたいなもの。
これはたとえば、ぢぇね拉致部レク仕込んで言う「目的のくおりあ」が結局は「意図的な阿呆ダンス」をめぐるどろどろの中の上澄みを取り出してきれいに清書して見せたけじゃないの、みたいなのと、ちょっと似ている。
あるいは、可能表現と原因帰属の関係もちょっと似ているのかな。
ラネカーみたいに「意味とはもっとも広い意味での conceptualizationである」という、何でもありの話を一般論でする分にはここに書いたようなことも symbolic view の枠組みの中に入ることになるのでしょうが、個別の構文の話としてみた場合、「じゃあ、semantic poleに「共同注意」って書くの?そう書いたところで、実際の言語知識のありようをきちんと捉えたことになるの?」という疑問がでてくるわけです。
へんな時間によく考えずに書いているのでいい加減ですが、まあそんなとこ。