オタクの意味論?

もう20年くらい前の大学院生の頃、同級生が「自分は平安時代オタク」というのを聞いてそこはかとない違和感を覚えた鴨です。おはようございます。

そのときはその違和感の原因を特定できなかったのですが、さっきふと思い出して、そして納得できる説明が見つかりました。それは、反(?)間主観化。

オタクというのはもともと、ある種の人々がお互い同士、名前やあだ名で呼び合うのでもなく、また「お前」のような人称詞で呼び合うのでもなく、「お宅」と呼び合う(呼び合っていた)という話に由来しています。それがその人たちの人間関係の希薄さを端的に示すものと見なされていたわけです。つまり、オタクは、当初は、間主観的な動機づけによって成立した言い方だったわけです。

ところが冒頭に書いた院の同級生の場合、「平安時代オタク」というのは、「平安時代のことが妙に好きで、やたら細かいことまで詳しく知っている」というような意味合いで使われていたわけです。そしてその人自身は、並み以上の社交性の持ち主で、人間関係が希薄ということはおそらくありませんでした。つまり、この場合の「オタク」は、間主観的な意味合いで使われていたわけではなかったのです。

もともとのオタクは、<人><人>の2項関係について用いられていたわけですが、院の同級生の場合には、<人><事物>の2項関係にかんして使われていたわけです。<人><人>の関係(を含む関係)が間主観的な関係だとすれば、このような用法の変化は、もともと間主観的な性質をもっていたものが、その性質を失う例になるわけです。なので、反・間主観化。

オタクという語の使われ方をちゃんと調べたわけではもちろんありませんが、とにかくそういうことで、ここにメモしておきます。