観察の理論負荷性
理論を持たない人間が丸腰で事実に立ち向かっても意味のある発見はできないと信じている鴨です。おはようございます。
ここ(↓)で言われているような意味での「観察の理論負荷性」という考え方に私が自然になじむことができたのは、学部から大学院初期に読みふけった板倉聖宣氏の影響かな。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%FD%CF%C0%C9%E9%B2%D9%C0%AD
ちなみに、「自分は生成文法とか認知文法とかの、いわゆる理論的なアプローチの人がやっていることには賛成できない」→「だから自分は特定の理論によってたった見方はしない」→「自分は事実そのものを見て研究したい」というのは論理的な飛躍を含んでいるわけで…
「理論を持つ」というのは、「既存の理論を採用する」ということではなくて、「自分がどのような見方で事実を見ているのかを自覚的に、あるいは反省的に、あるいはメタ的に、明らかにする(少なくともそのような姿勢を持つ)」ということです。
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別の言い方をするならば…
「生成文法にしても、認知言語学にしても、どちらにしても、理論は事実に対する見方をゆがめている」
と言えばそれはそうかもしれない。
ただそこから、「理論が事実に対する見方を規定する」というところにたどり着くことができれば、次のような疑問との関連にたどり着いてもおかしくはない。
「同じように「ありのままの事実を見ている」と主張する人であっても、「目の付け所」がいい人と悪い人がいる。その違いはどこから来るのか」
つまり、「目の付け所」を規定しているのが、ここで言っている(無自覚的な)理論なわけです。
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たとえば単語の意味を研究するときに、「aで始まる語に共通の意味は何か?」とか「eで終わる語に共通の意味は何か?」という問題意識で臨む人はいない。そのような問題には意味がないから。
それでは、「意味がない」と言える根拠は何なのか。「意味があるかどうか、やってみなければ分からないじゃないか」といわれたらどう答えるか。
理論的な根拠については、この日記の一番下に書きます。
「根拠なんて要らない。そんなの当たり前」という人はいないと思います。
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認識は現実世界の単なるコピーではない。人は現実を「ありのまま」に認識することはできない。例えば視覚に限っていっても、人は環境全体を見ることはできない。背中の方向にあるものと目の前にあるものとを同時に見ることはできない。目の前にあるものでも、すべてに同時に均等に注意を向けることはできない。そこには必ず(無意識の)「選択」がある。
もちろん言語は現実世界をありのままに語ることはできない。これはLeeのCompeting Discoursesの最初の方にも書いてあること。
研究者としてデータを見るときも同じ。データのある特定の側面を(無自覚のうちに)選択的に見るしかない。その選択のあり方を規定しているものは何かということ。
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「メディアリテラシー」という発想も、このあたりに関わる。同じ一つの事象に対して、事実だけを語りながら、全く違った知識を持たせることが可能という認識が必要。
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文学研究の世界に関しても同じ。
「批評理論なんてくだらない。理論にとらわれず、とにかくテクストを読み込むことが大事」という人に対して私は、共感と違和感の両方を同時に抱きます。それは、「生成文法も認知言語学も自分には合わない。自分は特定の理論によらずに、事実をありのままに記述するのだ」という人に対して抱く共感および違和感と同じ。「ぽすころ」とか「にゅ〜ひす」とかと言った個々の既成の「理論」に賛成するか否かと、「理論」の役割自体を否定することとは別。
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既成の理論に賛成できなければ、自分で理論を作るしかない。自覚しているかどうかは別として、それ以外にはありえない。それが上にも書いた「目の付け所」ということだし、別の言い方をすれば、「問題意識」ということになる。
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上の答えは、「言語記号の恣意性」です。恣意性が成り立たない部分、たとえばオノマトペの研究とかでは、上で「意味がない」としたのと近い形の問題が意味ある問題として成り立ったりするわけだ。