事実に対する洞察と理論的な枠組み

実は生成文法を愛している鴨です。こんにちは。どれくらい愛しているかというと、学部の頃に長谷川欣佑先生の授業を受けて、「このまま生成文法の人として生きていこうか」と思ったくらい。そして院生の頃は、生成文法の人たちに助けられて生きていました。

で、今日は、生成文法と認知文法をねたに、事実に対する洞察と理論的な枠組みは区別したい、ということについて書いてみたいと思います。お題は、tough構文。

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tough 構文に対する(伝統的な)生成文法の枠組みでのアプローチには、``tough movement''と``complement object deltion''とがあったと思います。

たとえば John is easy to please について考えてみます。

前者の見方では、基底構造は概略

[ ] is easy to please John

で、後ろの John が主語の位置にもっていかれて

John is easy to please

になる、という感じ。

そして後者の見方では、基底構造は概略

John is easy to please John

みたいなもので、うしろの John が削除される、という感じ、かな。

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一方、Langacker の Raising and Transparency では、tough 構文は基本的に metonymy の問題とされています。

つまり、John is easy to please において、easy と評価されているのは John ではなくて to please (John) である、言い換えれば、主語の John と 述語内の easy は統語的にはともかく、意味的には直接関係を取り結んでいるわけではない。そしてこのような意味と統語のズレは、active zone と profile のずれ、つまり metonymy というかたちで言語に遍在するものだから、とりたてて問題視する必要はない、という考え方です。

しかし一方で、Langacker は同じ論文で、John は easy であることに関して responsibility をもっている、みたいなことをいっていたと思います。さらにtough構文を普通の形容詞述語文との連続で捉えている。これは、John と easy が意味的にも直接的な関係を取り結んでいることになりはしないか、という疑問を呼び起こしてくれます。

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というわけで、生成文法の tough 構文論は、

tough movement と complement object deletion

認知文法(大文字の Cognitive Grammar)の tough 構文論は

metonymy と responsibility

これって並行しているよね、というのが私の見方です。

もちろん、生成文法と認知文法では根本にある言語観(ここでは意味と統語構造の関係についての考え方)が違うので、「並行している」からと言って「同じことを言っている」ということにはなりません。ですが、現象を見る枠組みが違っていても、同じ(と推定される)現象を見ている限りは、並行する見解が出てきてもおかしくはない、と私は思うのです。

これが、事実に対する洞察と理論的な枠組みは区別しよう、ということ。

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それでは、区別しないとどうなるか。tough 構文の場合、論理的には二つの可能性があります。

一つは、事実に対する洞察の並行性を重視して、理論的な枠組みの違いを考慮しない考え方。もうひとつはその逆で、理論的な枠組みの違いを基に、事実レベルでの洞察の並行性を否定する考え方。

前者の「洞察重視」の発想の例が、(私の記憶では)中島平三先生なのではないかと思います。中島先生は以前、件の Langacker 論文を論じた文章で、「metonymyってのは結局は変形のnotational variantでしょ」みたいなことを言っていたと思います。文献を確認できないのでうろ覚えですが、

そして後者の「枠組み重視」の発想の例が、(私の記憶では)中島先生に対する認知言語学者の反応。「notational variantなんてとんでもない。意味と統語構造の関係について生成文法認知言語学ではまったく違う見方をしているのだから、notational variantなんてことはありえない」という反応だったと記憶しています。というのもやはり、うろ覚えですが。

今の私の見方は、どちらも実態の一面(それぞれ違う一面)しか見ていないのではないか、というものです。

んな感じ。