mirativity/共感と思い入れの文法

現代日本語は、「予想外の事態が展開中。だけどこれは自分の知識体系に受け入れることができる」と「予想外の事態が展開中。自分の知識体系に受け入れることができない。何だこれは」を形式上区別できる言語なのですが、この違いは mirativity 研究的にはどう扱われているのだろう。

前者は、たとえば「梅雨時。でも今日は晴れてて嬉しいな、と思いながら外出したら雨が降ってきた」という場合のあれ、後者は、たとえば「砂漠の真ん中にある水飲み小屋(?)で休んでいたら何かぽつぽつ変な音がしてきた。そこで外を見たら雨が降ってた」みたいな場合のあれ。

                                                                                                                                    1. +

ちなみに、mirativity を表すのに接続法を使う言語が世の中にはあるわけですが、上に書いたのとは別に、現代日本語でもそれっぽい雰囲気があるよね。

                                                                                                                                  1. +

mirativity と関係ありそうでなさそうなのが、現代チベット語のとある動詞(助動詞?)。共感と思い入れが原理になっている雰囲気。DeLanceyが mirativity論文で言及しているのだけれど、mirativityとどういう関係になっているといいたのか、いまいち言いたいことがはっきりしない。

これ、データに関して、いつか機会があったら某さんに聞いてみたい。

                                                                                                                                1. +

mirativityとevidentialityとaspectのからみ、すごくめんどくさい。面白いのも確かだけど。

日本語の「けり」なんてのは全部かかわってる。トルコ語の何とかいうのもそうっぽい。

                                                                                                                                1. +

以上メモ。