言語学(者)に対する社会の期待

言語学(者)に対して社会が期待することとして、最初に思いつくのは「外国語教育に役立つことをやれ!」ということだと思うのですが、実は、私たちに対して社会が期待することとして、すごくワカリヤスイのがもう一つあると私は考えています。

それは、「街で使われているある言葉遣いが正しいか正しくないか、判断してほしい」ということ。

もちろんこれはアレです、言語学概論とかの授業で最初の方に出てくる「規範 vs. 記述」の問題で、言語学に規範性を求める態度、学問上の建前としては受け入れがたい態度です。が、一般の人は概論の授業のことなんぞ知りません。なのでまあ、そういうことを求めてくるわけです。

で、言語学者の中にも、「学問上の建前としては記述主義があるけど、実際には、たとえば辞書とかには人は規範を求めるものだし、辞書記述とかには規範的な姿勢も必要」という考えから、「不自然」な表現に関して、「広く使われていて意味も通じるけど、文法的には間違い」とか何とかそういう解説をする人もいるわけです。

で、ある日、ある人が、私に、そんなメールをくれたのです。

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この写真に撮られている掲示の表現は、「正しい」と言えるのですか。それとも「意味として通じるけど文法的には間違い」、ですか。それとも「間違い」ですか。

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で、私が何と答えたかというと…

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正しいか正しくないかの評価は言語学の仕事ではないので、やりません。ただ、事実としてこの表現が実際に使われた例がここに一つあるということは確か。そして、その表現に対する私の直観は、「不自然」です。

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この場合の「不自然」は、事実上「容認不可能」に近いものです。

上に書いたように、言語学者にはそういう次元での「社会の期待」があります。これに応えるべきかどうか(記述の建前をどのくらい徹底するかしないか)については、言語学者の中にもいろんな立場があると思います。

ただ、私自身は、どちらかというと、少なくとも母語である日本語に関しては、平均的な言語学者よりも記述重視なのではないかと考えています。他の人の表現に関して、「へ〜、そんな言い方あるんだ。おもしろ〜い」と、(嘲笑的な意味ではなく)おもしろがるタイプだと思っています。

そして、「正しいか正しくないか」ではなく、「自分の言語知識に照らし合わせたとき、(どれくらい)自然に感じるか感じないか」「実際にどれくらい使われているか、あるいは、いそうか」で考えるタイプのようです。

ということで、鴨は反社会的な言語学者だ、という話でした。