「金で買う」という表現

兵庫県議の問題発言・問題行動に驚き呆れているshunpeiです。こんばんは。

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201312/0006577546.shtml

ただ、今日は発言の内容ではなく、「金で買う」という表現についてメモしておきたいと思います。つまり、これはなぜ重複表現と感じられないのか、ということです。

何かを「買う」ときに買い手が差し出すものは「お金」またはその代替物に決まっています。これは「買う」の語彙的な意味の一部、ないしは「買う」の基盤になっているフレーム的な知識としての「商取引」の知識の一部になっていると推測されます。その証拠に、「〜で買う」の「〜」のところに「金」「お金」「商品券」「カード」「具体的な金額」以外のものを入れると不自然になります。物々交換に「買う」は使えませんし、物との交換によってではなく形のない労働の報酬として何かを手に入れるときにも、「3時間の労働で買う」とは言えません。「一生懸命働いて高級な車を買う」みたいな言い方はありますが、この場合の「て」は「で」とは別です。

つまり「買う」ときにさし出すのは「お金」に決まっているわけです。これは「おじさん」が「男性である」に決まっているのと同じ程度もしくは近い程度に決まっていると言えそうです。

「女のおじさん」は(性別に関する普通の見方のもとでは)矛盾表現です。物々交換を指して「醤油でソースを買う」という言い方も変です。これは並行していると思われます。

そして一方で「男のおじさん」は重複表現で、あまり自然ではありません。にも関わらず「金で買う」は普通に使われている表現です。私自身も不自然さは感じません。可能表現にした「金で買える」も同様に自然に流通している表現です。

ちなみにこの「金で買う」「金で買える」の「金で」は「カードで」「商品券で」などとの対比で使われているわけではありません。「カードで買う」「商品券で買う」は「現金で買う」と対立するものですが、「金で買う」とは対立しません。「カードで買う」「商品券で買う」「現金で買う」は結局どれも「金で買う」の一つのあり方でしかないわけです。

ということで、「金で買う」「金で買える」はなぜ重複表現と感じられないのでしょうか。

私自身はこれについてぼんやりとした仮説めいたものを持っていますが、今はまだあまりにぼんやりしすぎている状態です。もう少しきちんとした形になったら、書くかもしれません。