認知言語学の学び方4

行けませんよ宣言をしていた「認知言語学の学び方4」に出席し、そして途中で抜けてきた 鴨 です。こんばんは。

飛行機の予約をしたときにはこの企画のことを知らなかったのですわん。もっとも、最後まで参加できるように日程を組んでいたら別のところでしわ寄せが出ていたところなので、あちら立てればこちら立たず状態なわけですが。

それはそうと、野村さんの話は大変すばらしいものでした。ああいう質の高い、原理的な話を聞かせていただけると、もう一回オーソドックスな認知言語学に戻ってみてもいいかな、という気になります。

「自分はラネカーをかなり読み込んでいるぞ」という自覚のある人にとっては大変参考になる話でした。ただ、初学者には難しい内容だったかもしれませんが。

ここでは、「いまねんと」という概念の重要性を確認しておきたいと思います。「いまねんと」というのは、もともとは「規則(ではないんだけど、規則みたいなもの)、つまりスキーマは、具体的な言語表現の中にいまねんとだ」ということなのですが、同じことが「原理的な話(言語観・意味観・研究方法観)」と「具体的な言語現象を分析した事例研究」の間にも言えることなのだと思います。

ラネカーの一つ一つの論文の中に、今日の話に出てきた言語観・意味観・方法論観がどれだけ貫徹されているか、「認知文法」「認知言語学」「構文文法」などを標榜するほかの研究者の論文ではどうか、それを折に触れて考えることが、今日の話を生かす一番の方法なのだろうと思います。

というのは、実は野村さんが「今日の話を、論文を位置づけるときの座標軸にしてほしい」とおっしゃったときに考えていらしたこととおそらくは同じなのでしょうけど。

でもってさらに補足しておくと、ぼくたちは、ラネカーの言語観・意味観・方法論観に(部分的にも全面的にも)従う(あるいは共有する)必要はない、と思います。(「従うな、共有するな」と言いたいわけではありません。)そしてこれは、「認知言語学」を標榜するかどうかとは無関係です。(つまり、非ラネカー的な認知言語学だってあっていいはず。)

従うことより重要なのは、ひとりひとりの研究者が自分自身の言語観・意味観・方法論観を問い直すことなのだろうと思います。

きちんと自問した結果であれば、ラネカーと同じであっても違っていても、あるいは近くても遠くても、それ自体はどうでもいいはず。

というのは、実は昔言語過程説の人が言ってたこととおそらくは同じなのでしょうけど。

比喩の話についてはちゃんと聞く余裕がなかったので省略します。