節穴さんの擬似認知科学

しょうもない細かいことに足を引っ張られて大局を見失うことの多い 鴨 です。こんにちは。

人様の言行を見ていて、

「それに関連する情報はあんたの目の前にたくさん転がっているではないか。そんなことも気づかないあんたの目は節穴か!?」

と言いたくなることが、ごくごくたま〜に、あるわけですが、最近になって、節穴さんであることについての考え方がちょっと変わってきました。

節穴さんになれるということは意外と重要なことなのではないかと思うようになったわけです。

しようもない細かいことを無視すること、しかも「これは無視するぞ」と判断することもせず

# 「無視するぞ」と判断している時点で、「判断の対象」として
# 取り上げている、つまり無視しきれていないわけですな

端的に無視すること、これができるということは非常に大切なことなわけです。

身の回りにある事柄のすべてに関して、いちいち「これは考慮に入れるべきか無視すべきか」を考慮(!)していたら、人間何もできないわけで。

# 認知科学で言う「フレーム問題」というのが、多分これに
# 関係しているわけです。

そして節穴さんであるということは、この「端的に無視」できる範囲が人によって違うということの現われに過ぎないのではないか、ということに思い当たったわけです。

あの人が「端的に無視」しているあの<こと>を、私は、たまたま、無視することができない。しかも運が悪いことに、その<こと>に対して私という人間は、たまた意味だの価値を見出してしまう。

それだけのこと、なのかも。

何でこんなことを思い出したかと言うと、某所での某氏の言動に「え?」と思った、わけではなくて、最近某所(!)で David Lee の_Competing Discourses_を読んでいることと関連しているのです。

このLeeのこの本、私にとってはきわめて明快な名著なのですが、一緒に読んでいる人々にとってはそうではないらしく、非常にゆっくりとしたペースで読み進めています。まだ第1章です。

その中で、言語の大きな機能としてclassificationとselectionが挙げられているわけです。classificationはいわずと知れたカテゴリー化の話です。

で、ここで問題になるのはselectionの話。Lee氏の言う言語のselectivityとは、「言語というのは外部世界の出来事をありのまま全部表現しつくすことはできない。表現の対象に入れるかどうかについての選択のプロセスが必然的に伴わざるを得ない。その選択のし方には、慣習的に決まる面がある」という話です。

# 語用論とかメンタルスペース理論の人が言ってること
# とかにもつながりそうだけど。

そして表現の対象に入れるかどうかについて、我々言語使用者は意識的に考えることはしません。いちいち考えていたら何も喋れなくなってしまう。

「言語というのはこんなことも表現してい「ない」のだ」

ということは、そういう問題意識を持って反省的に考えてみないと分からないことです。

つまり、言語を使えるということは節穴さんになれるということなのかもしれません。

って、そこまで言っちゃうと違いますか。

いずれにしても、節穴さんになれるということはアプリオリに駄目なことではなく、むしろ大事なことなのではないかという話でした。