可能表現とか授業とか

金曜の夕方からようやく連休に突入した 鴨 です。こんばんは。一度も休講しなかったけど、学生の出席率は大変よろしかったです。

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それはそうと、可能表現についてあいかわらずうだうだと考えているのですが。

無標識可能表現と普通の有標識可能表現の関係を適切に捉えるためにはやはり可能をモダリティとして捉えることが必要なわけです。そしてそれは、一人称的に捉えるならば、おそらくはとある心理学的な術語(ふつうは学習心理学に出てくる術語)に頼ることになる。

そこで問題は、一つには、その術語が捉えようとしているものを、定義の循環なしにうまく規定することができるのだろうかということ。それとも、経験のゲシュタルトをなすものだから、その諸要素を規定するときに相互に言及することは避けられない、というかたちで処理していいものなのか、ということ。

もう一つの問題は、わたしの場合、それを生態心理学の言葉で根拠づけなければならないということ。なんとなく、できそうなできなさそうな気配です。

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授業で、ナイサーの5種類の自己知識論の話をして、interpersonal selfとの関連で「学生は教師の鏡!」という話をしたところ、去年の私の(いちばん雰囲気の悪かった)授業に出ていたとある学生から、「でも学生がやる気なければしようがないじゃんじゃないですか」みたいなコメントがありました。

まあ確かに、「学生は教師の鏡」であると同時に「教師は学生の鏡」でもあるのです。なので、学生のやる気と教師のやる気は、うまく行けば相互に高めあう関係になりうるし、逆に相互に低め合う悪循環につながることもある。

そして、教師の側の原因帰属のあり方としては、授業がうまく行くかどうかの原因を、学生の側に帰属するか自分自身に帰属するかという場合、自分自身に帰属した方が教師としての成長にはつながるのです。それも、自分自身の<能力>よりは<努力>に帰属するのが良い。

逆に、学生の側としては、自分の成績の良し悪しの原因を教師に帰属するよりは自分自身の努力に帰属するのが成長につながりやすい。

ええとそれから、「生態心理学と認知心理学は実は全然立場が違うということについてもっとちゃんと説明してほしい」とか、「生態心理学と応用行動分析学の関係について教えてほしい」とか、そういうリクエストもありました。前者に関しては「認知主義」とか「直接知覚」とかについてきちんと時間をとって説明しなければなりません。後者に関しては、たしかに、頭の内部のプロセスよりも外部との関係を重視するという点では似てなくもない。それからわたしは個人的に行動分析学に魅力を感じている部分がある。

この辺の話をきちんとやることは20世紀の心理学の歴史をおさらいすることになるわけで、当然「認知革命」とかも出てきてしまうわことになるのでしょうが。

あ、それからそれから、「仮定法と過去形に形式上のつながりがあるのは意味上のつながりに動機付けられているから」という話をナイサーの自己知識論との関連でちらっとしたのですが、「脱線になるからやめます」と言ったところ「くわしく説明してほしい」というリクエストもありました。

ナイサーとこれとどういう関連があるのかについては、前提としてわたしは空間メタファー説はとらない、つまり、<距離がある>という説明は使わない、ということがあります。そして、時間についての一人称的なアプローチ(これは『アフォ認』で少しだけ触れた)を採用すると、つながりが見えてくる、ということなのですが。

で、そういうリクエストに全部答えていたら「これのどこが「英語学」なのだ!」という話になり、それ以前に「まとまりがなくて分からない」という話にもなりかねないので、どのようにしようかとちょっとだけ迷っているところです。