行間は読まない。できるだけ。

私、論文とか学会発表のアブストラクトとかを読むときには、できるだけ行間を読まないように努力しています。

そう書くと、「行間を読まないと深い理解ができないのでは?」と思われる人がいるかもしれません。それはきっと、「行間を読む」ということについての前提が、私と違うということなのだろうと思います。

「行間を読む」ということについての私の見方は

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人間、ほっといたら自動的に行間を補完して、書いてないことまで書いてあるかのように思いこんでしまう

                                                      1. +

というものです。

もう少し別の言い方をすると、

                                                      1. +

人間、文章を読むときには、既有の知識に基づいたトップダウン的な処理を自動的に(無自覚のうちに)してしまうものだ

                                                      1. +

というものです。

これは簡単な実験もどきで示せることで、授業でやると学生は「!」という反応を見せます。

その時に無自覚のうちに駆動される既有の知識体系が書いた人のものと(たまたま)一致または近ければ、書いた人の意図に近い解釈にたどり着けるわけですが、書いた人のものと(たまたま)違っていれば、気づかないうちにはなはだしい誤解をすることになるわけです。

また、駆動される既有の知識体系が書いた人のものと一致または近いと、書いた人の議論の穴とかを無自覚のうちに好意的に補完してしまう、つまり見過ごすこともあるわけです。

なので、できるだけ行間は読まないことにする。可能な限り字義通りに、でも可能な限り好意的に読む。穴は穴として認識しつつ、「補完」は可能な限り「補完」と自覚しつつ、読む。

そうするといろいろなことが見えてくる(気がする)のです。