『俺ら東京さ行ぐだ』の謎

以前、「端的な無」と「欠如」について書いたことがあります。それとの関連で少し書いておきたいことがあります。

http://d.hatena.ne.jp/shunpei/20121030#p1

http://d.hatena.ne.jp/shunpei/20121031#p1

吉幾三の有名な歌で、『俺ら東京さ行ぐだ』というのがあります。歌詞はたとえば↓などで見れます。

http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=31804

この歌詞が私にはよく分からないのです。

この歌詞では、テレビ、ラジオ、ピアノ、電話、瓦斯…これらが「無え」と言われています。何かが「無い」と自覚的に認識し、そのことに苛々しているということは、それらが「欠如」していると認識しているということです。何かを「欠如」と認識しているということは、それが「ある」状態と暗黙のうちに対比しているということです。

そもそも何かを「テレビ」とか「ラジオ」とか、そういう言葉で呼べる(なおかつそれがどういうものか、ピンとくる)ということは、それが(ここではないにしろ、どこかに)あるということを知っているということなのでしょうが。

でも、「村」の人は、そのような認識を持てるのでしょうか。新聞も雑誌も電気も瓦斯もない村の人に?

つまりこの歌は、「端的に無」と捉えられるはずのものを、「欠如」と捉えて歌っていることにならないでしょうか。

「端的に無」は、この場合、「村の人にとって」ということです。そして「欠如」は、この歌の場合、「都会の人にとって」ということになります。つまりこの歌は、一見村の人の目線で語られているように見えて、実は都会の人の目線で語られているのではないでしょうか。

まあそこがこの歌の面白さの素だというのはもちろん私も分かっています。分かっているけど書きたくなってしまったのでした。