知識の呪縛についての語り方

『言語の社会心理学 --- 伝えたいことは伝わるのか』読みました。よい本でした。

この本の中で透明性の錯覚とか知識の呪縛とかについて触れられているところがあったので、それとの関連でちょっと思ったことを書いておきます。

知識の呪縛というのは短く言ってしまうと、相手が何を知らないかがそれを知っている人間にはなかなかわからない、ということです。そしてこれはおそらく、「○○さんは◎◎について知っているか知らないかと言えば、たぶん知っているだろう」と自覚的に判断しているのではなくて、「○○さんが◎◎を知らない」という可能性がそもそも頭に思い浮かばない状態なのだろうと思います。

# 英語学の大学院で博士号をとったばかりの人がリメディアル教育重視の大学で英語を教えはじめて経験するあの衝撃、といえば想像がつくでしょうか。

これはつまり、知識の呪縛を当事者の立場から一人称的に見れば、「◎◎を自覚的に無視している」ことには多分ならなくて、「◎◎を端的に無視している」ことになるのだ、ということなのだろうと思うのです。

しかしながらこれを他人の立場から三人称的に見て説明するときには、○○さんが◎◎を自覚的に無視しているかのような語り方をしてしまいやすいのではないかなあと思うのです。つまり、「端的な無視」を「自覚的な無視」にすり替えてしまいがちなのではないかなあと思うのです。

「端的な無視」を起こさないためのストラテジーと「自覚的な無視」を起こさないためのストラテジーは、おそらく違うだろうと思います。つまり、「知識の呪縛」を防止するためのストラテジーとして思いつくものは、それを「端的な無視」として語る場合と「自覚的な無視」として語る場合では違ってくるだろうと思うのです。そして、「自覚的な無視」を起こさないためのストラテジーでは「端的な無視」は防げないだろうと思います。

『言語の社会心理学』がそのような語り方の罠にはまっているということではないのですが、一般論として気になったので、書いてみました。