知識の呪縛についての振り返り方

昨日のエントリーで、知識の呪縛というのは当事者の一人称的な観点からは「端的な無視」の類なのだろうけど、三人称的な観点からは「自覚的な無視」にすり替えられてしまいやすいのではないか、というようなことを書きました。それについての補足です。2点あります。

一点目は、「振り返り」の問題です。

昨日は「当事者の立場」と「他人の立場」を対比させて書いたのですが、実際にはこれは「本人かどうか」という対比ではないということを思い出したのです。つまり、自分自身のことであっても、過去のことを振り返って語る場合には、「端的な無視」であったはずのものを「自覚的な無視」にすり替えて捉えたり語ったりしてしまうのではないか、ということです。

知識の呪縛に由来すると思われるミスコミュニケーションが発生したときに、「この程度のことは当たり前だから君たちにはわざわざ言う必要はないと思って言わなかったんだ」みたいなことを言う人がいます。そういう人は、実際にその人の言葉が示すように「自覚的な無視」をしていたのでしょうか。それとも、当事者としては「端的な無視」をしていたにもかかわらず、あとから振り返ってみたときには「自覚的な無視」をしていたつもりになってしまっているのでしょうか。

前者だけでなく、後者の人も相当いるのではないでしょうか。もちろん、後者ばかりだ、と決めつけるつもりはありません。ただ、ここで言いたいのは、後者の人もいるだろう、ということです。

二点目は、このようなすり替えは必ずしも有害なものばかりではないだろう、ということです。

もともと「端的な無視」だったものを「自覚的な無視」にすり替えて語る、ということは、情報が伝わらなかった原因の一端が発信者側にあるのに、それに言及せずに受信者側に帰責することです。これは、場合によっては相手(受信者)に言われのない責任を押し付けることで、無理な要求をすることになります。でも、場合によっては、自分(発信者)に対する相手の評価を維持することにつながることもあるかもしれませんし、また、相手にある程度の「背伸び」を要求することで、相手の成長を促す効果もあるかもしれません。

ということで、この種のすり替えは必ずしも有害なものばかりではないだろう、とも思うのでした。