他者に心を帰属すること(の一端)について

ずっと前にもどこかに書いたかもしれませんが…

自分の行動に何か不適切なところがあったときに、他者から「心構え」のようなものを批判されることがある。「いつまでも学生気分でいるんじゃない」とか、「いつまで若いつもりでいるんだ」とか、そんな感じで。

「いつまでも学生気分でいるんじゃないよ」と言われると、いったんは納得する(こともある)。しかし、振り返ってよく考えると、「自分はまだまだ学生だ!」と思っていたわけではなかった、ということに気がつく。

「いつまで若いつもりでいるんですか!」と言われて、心の中でつぶやく。「自分はまだ若いから」みたいに自覚して行動していたわけではなかったのだけど…

海外滞在中に日本国内では経験しないようなことに遭遇して、「日本にいるときと同じつもりで行動していると大変なことになるよ」と言われる。周りのものを見ながら「なにもかも日本と違うなあ」と感動しながら行動していたにもかかわらず、そのように言われる…

実際に発生していたのは、「学生っぽい行動」「若手っぽい行動」「日本国内と同じような行動」…そのような行動に対して、観察者は、その行動の原因として「心」を想定する。その「心」の内容は命題に似た形で表示されるものと想定され、「学生気分」「若い」「日本にいるときと同じ」のように表現される。

だが、「行動の原因として「心」を想定する」という素朴心理学的な発想に基づく観察者の発言は、実際には行為者の行動を説明するものとしては成立していない。


(少なくとも一部の)哲学者は、行動の原因として「心」あるいは「意志」「意図」などを想定する立場を積極的に棄却する。そして、私たちが行動の原因として素朴に想定する「意図」とは、実際には「事後的に語られるもの」でしかないという立場をとる。

(↑記憶だけに基づいて書いているので、かなり単純化してしまっているはず。)

このように、私たちが素朴に「意図」「意志」「心」として捉えるものを言語的なものに還元する立場に関して、私自身は納得していないわけだけれども、それについては、哲学者の行為論とか意図論とか、さらには身体論とか、もう少しきちんと勉強してからにしたいと思います。

続きはいつか、気が向いたら(♪)書きます。