ゼノンのパラドクスと、先行研究などの批判の作法

諸般の事情により大学の業務が激減して、時間ができた私です。こんにちは。

大学の仕事はなくても、他にやらなければいけないことはあるのですが、まあそれはいいとして。

今回は、ゼノンのパラドクスとの関連で、以前から考えていることを書いておきたいと思います。

 

「ゼノンのパラドクスとは何か」については、今さら私が説明するようなことでもないと思います。いちおうウィキペディア先生にリンクを貼っておきます。とりあえずは、このリンク先の「アキレスと亀」の話を思い出していただければと思います。

この

議論その1:

走ることの最も遅いもの(たとえば亀)ですら最も速いもの(たとえばアキレス)によって決して追い着かれないであろう。なぜなら、追うものは、追い着く以前に、逃げるものが走りはじめた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないからである。
(上のリンク先から引用。カッコ内は引用者による補足)

という議論に対して、次のような批判を提示したら、どのように評価されるでしょうか。

議論その2:

議論その1は誤りである。なぜなら、アキレスと亀を上のリンク先の条件で走らせたら、アキレスはあっという間に亀に追いつき、追い抜くからだ。

この批判は、少なくともこれで完結したものをとして提示された場合には、好意的な評価は得られないでしょう。おそらくは次のようなコメントがされると思います。

議論その3:

(そんなことは最初から分かっている。)問題は、議論その1が、事実としては明らかに誤りなのに、論理的には正しいように見えるということなのだよ。だから、議論その1が実際には誤りなのに見た感じは正しいように見えるのはなぜなのかを明らかにするべきなのだ。あるいは、議論その1のどこがどのように誤りなのかを、論理の内部構造に立ち入って明らかにしないといけないのだ。議論その2はそれをしていないわけで、だから議論その1への批判としては不十分なのだ。

 

さて、ここまでお読みなった皆さんは、今日のこのブログ記事のタイトル「ゼノンのパラドクスと、先行研究などの批判の作法」をあらためてご覧になって、私が今何を言いたいかが大体お分かりになったのではないかと思います。

学術研究における先行研究に対する批判に、次のようなものがあります。

議論群その4:
  • 4-1:「○○氏の議論には△△という事実が反例になる。だから、○○氏の議論は誤りである。以上で○○氏の議論の検討終わり。」
  • 4-2:「□□氏の議論は××という実験結果によって反証されている。だから□□氏の議論は誤りである。以上、□□氏の議論の検討、完了。」

言うまでもなくこれは、議論その2と同じ論理構造です。したがって、これについては次のようなことが言えると思います。

議論その5:

たとえば議論その4ー1は、△△という事実が反例として有効である限りにおいて、批判として有効ではある。ただし、「△△という事実が反例になってしまうのは、○○氏の議論のどのような欠陥によるものなのか」あるいは「どのような仕組みで、そのような反例が生まれてしまうのか」が明らかにされなければ、批判として完成してはいない。これができなければ、パラドクスを成立させただけで終わるのだ。

逆に、それができれば、△△という事実が○○氏の議論に対する反例として有効であるということも示すことができ、批判として完成する。

議論その4ー2も同様。

先行研究への批判はそのようなものであってほしい、と、議論その4ー2のレベルの批判を実際に受けている私としては思うわけです。(誰のどの論文かを名指しするのは控えさせていただきます。)

 

そして、今日のタイトルをもう一度見ていただくと、「先行研究など」となっています。この「など」とは具体的に何かと言うと…

たとえば学内業務で何か意見なり主張なりを提示したときに、議論その2あるいは議論群その4のレベルの回答で却下されると、いささかストレスになるのですね。「こちらの意見・主張のどこがどのように間違っているのか、論理構造に立ち入ってしっかり論破してほしい」と思ってしまうのです。

こんなことを言うと、「めんどくさっ!」「そんなもの必要ない」と思われるかもしれません。ですが、私のこれまでの経験からすると、こちらの間違いを論理的に示していただけたときには、少なくとも私の場合は、反発の気持ちは起こらず、むしろ心地よさを感じることもありますし、「この人は頭のいい人だなあ」と思ったりもするのです。

もちろん、「など」の範囲は学内業務に限らないわけですが。

 

ということで、今日はこの辺で。