「端的に「無」である」ということ。

ちょっと前に、これ(↓)を読んで思ったこと。


http://pooneil.sakura.ne.jp/archives/permalink/001414.php


欠如は「欠如」として対象化されて認識されるのものではない。欠如は「対象として認識される範囲」の外にある。というか、その境界を構成するものである。

欠如があるということは、他者の観点からみると「対象として認識される範囲が狭くなっている」ということである。けれども当事者の観点からは、その「狭さ」は対象として認識されるものではない。


○ 携帯電話を持ったことがない人(←今どきいるのそんな人? とか言わないで。何年か前の話として考えて。)が「自分は携帯なんか持たなくても不便を感じたことはない」と思うこと。

○ 自宅でインターネット接続をしていない人(←同上)が「電話とFaxがあれば何もかも間に合うから今のままで何も不便を感じていない」と思うこと。

○ などなど。


「あなた自身は不便を感じていなくても、きっと他の人は困っている」という言葉は、なかなか通じない。自分が経験したことのない他者のあり方に対する想像力の限界があるが、それだけではない。そもそも自分にとっては端的な無だということが大きい。

無が端的な無としてではなく「欠如」として対象化されるきっかけの一つは、他者が困りつづけることを放棄すること。「なんか最近私のところに連絡来ないことがあるみたいなんだけど…」という「気づき」。

たしかに残酷ではある。