認知言語学の入門書

これ、最近出た認知言語学の入門書としては出色の出来だと思います。

ここまでいい本に仕上がった理由としては著者の学識の広さと深さの他に、入門書を書くことの怖さを著者が認識しているということが挙げられるのではないかと私としては勝手に思っています。

『ファンダメンタル認知言語学』 (野村益寛 2014 ひつじ書房)

あっという間に読んだ本

先日社会言語科学会に行った折、都内の書店で見つけて衝動買いしました。面白くていい本です。

脳科学というよりは認知心理学社会心理学。認知のバイアスについて入門以前の人向けに正確にエッセンスをまとめた感じ。これだけの内容をこの字数におさめて説明するのはとても大変だっただろうなと思いました。

典拠になってる研究も(ものすごく小さい字ですが)原著論文の書誌情報が書かれています。

アマゾンで「自己啓発」に入っていて、レビューにもその系統のものが混ざってますが、そこから受ける印象よりはずっと正統的な内容の本だと思いました。


『自分では気づかない、ココロの盲点』 (池谷裕二 2013 朝日出版社)

他者に心を帰属すること(の一端)について

ずっと前にもどこかに書いたかもしれませんが…

自分の行動に何か不適切なところがあったときに、他者から「心構え」のようなものを批判されることがある。「いつまでも学生気分でいるんじゃない」とか、「いつまで若いつもりでいるんだ」とか、そんな感じで。

「いつまでも学生気分でいるんじゃないよ」と言われると、いったんは納得する(こともある)。しかし、振り返ってよく考えると、「自分はまだまだ学生だ!」と思っていたわけではなかった、ということに気がつく。

「いつまで若いつもりでいるんですか!」と言われて、心の中でつぶやく。「自分はまだ若いから」みたいに自覚して行動していたわけではなかったのだけど…

海外滞在中に日本国内では経験しないようなことに遭遇して、「日本にいるときと同じつもりで行動していると大変なことになるよ」と言われる。周りのものを見ながら「なにもかも日本と違うなあ」と感動しながら行動していたにもかかわらず、そのように言われる…

実際に発生していたのは、「学生っぽい行動」「若手っぽい行動」「日本国内と同じような行動」…そのような行動に対して、観察者は、その行動の原因として「心」を想定する。その「心」の内容は命題に似た形で表示されるものと想定され、「学生気分」「若い」「日本にいるときと同じ」のように表現される。

だが、「行動の原因として「心」を想定する」という素朴心理学的な発想に基づく観察者の発言は、実際には行為者の行動を説明するものとしては成立していない。


(少なくとも一部の)哲学者は、行動の原因として「心」あるいは「意志」「意図」などを想定する立場を積極的に棄却する。そして、私たちが行動の原因として素朴に想定する「意図」とは、実際には「事後的に語られるもの」でしかないという立場をとる。

(↑記憶だけに基づいて書いているので、かなり単純化してしまっているはず。)

このように、私たちが素朴に「意図」「意志」「心」として捉えるものを言語的なものに還元する立場に関して、私自身は納得していないわけだけれども、それについては、哲学者の行為論とか意図論とか、さらには身体論とか、もう少しきちんと勉強してからにしたいと思います。

続きはいつか、気が向いたら(♪)書きます。

ある事故対応マニュアル

実はしなければいけないお仕事がたくさんあるのですが、体調も脳調も不良なのでこの前の続きを書きますね。知る人ぞ知る某事故対応マニュアルについてのコメントです。

その事故対応マニュアルは先日書いたタイプのマニュアルの典型例みたいになっていて、作成者の方は「見える化」も怠りなくやっていらっしゃるにもかかわらず、関係者にとっては「つらい」「こわい」ものになっています。

そこで、そのマニュアルの背後にあると思われる原則を、私なりに忖度して書いてみようと思います。

だいたい次のような感じです。



○ 開始前に事故が発生した場合には当事者を全力でサポートする。
○ 開始後に事故が発生した場合、当事者に責任が無ければ補填措置をとる。
○ 開始後に事故が発生して、当事者に責任がある場合には、対応は次の2つ。
     (あ)続行可能な場合には、自己責任としてそのまま続行させる。
     (い)続行不可能な場合には、補填措置をとる。



こう書いてみると基本は単純で、それなりに合理的だとは思います。若干の例外はあるかもしれませんが、これでほぼ対応できると思います。

これが明示されていれば関係者の皆さんは気分的にとても楽になるのではないかと思っています。

事故対応マニュアルの書き方

まったくもってたいへん唐突ですが、私は以前から事故対応マニュアルの書き方に関して一家言あります。今日はそれに関して書いてみたいと思います。

以下に書くのは、あくまでも一般論です。というか、色々な事故対応マニュアルに適用可能であることを望みながら書きます。


大きなイベントが行われる時、大小の事故が発生することを想定して、あらかじめ詳細なマニュアルが用意されて配布されることがあります。マニュアルがあるのは大事なことです。それも、漠然としたものではなく、ある程度詳しいマニュアルがあるのはありがたいものです。

ですが、難しいのは、時にそれが、「詳しく書けば書くほど、現場で実行する人間が不安になる」というパラドクスに陥ることがあるらしいということです。それは典型的には、次の論理形式で記述されたマニュアルで起こります。

                                                                                        1. +

○ 時点Aに事象Bが発生したら対応Cを実行してください。
○ 時点Dに事象Eが発生したら対応Fを実行してください。
○ 時点Dに事象Bが発生したら対応Gを実行してください。
○ 以下、これが延々と続く。

                                                                                        1. +

このタイプのリストが与えられると、人は(というか、私の知っている範囲でのかなり多くの人が)、不安になります。「こんなにたくさん場合分けがあるのか」「覚えきれない」「現場でこれが発生したとき、うまく対応できる自信が無い」と。


場合によっては、このような不安があることをマニュアル作成者が認識していることもあります。それで、「分かりやすく」するために、対応をフローチャート形式で示したりします。「見える」化という奴ですか?


でも、実は「見える」化(?)では、不安は根本的には改善されません。


そもそも上の不安が、なぜ出てくるのかが問題になるからです。それは、私が推測する限りでは、次の理由によります。

                                                                      1. +

○ 対応の原則が示されていない。
○ この時点でこの事象が発生したらこのような対応を求めるのは、なぜなのか、が示されていない。

                                                                      1. +

だから現場の担当者は、「時点/事象/対応」の組み合わせを、膨大なリストの形で覚えるしかないわけです。それが簡単にできることであれば不安は感じないわけですが、実際は簡単ではないので、不安になるわけです。マニュアルが充実して詳しくなればなるほど、覚える項目が増えて、自信を失っていくというパラドクスが発生するわけです。


逆に、「この時この事象に対してこう対応するのはこういう原則に則っているからだ」ということが明示されれば、それに基づいて頭の中で知識が構造化されます。これは、事象発生時の対応を容易にするのではないかと想像されます。


知識が構造化された場合、現場で事象が発生した時の対応にそれが介入してくる可能性も、ゼロではありません。つまり、現場の判断ないし独断が介入しやすくなる可能性ということです。だから、マニュアル作成者に、「あらゆる関係者に対して厳密に同じ公平な対応がなされるようにしたい」という希望がある場合には、原理原則に言及することは好まれないかもしれません。


しかし、膨大なリストを処理するときに発生する「エラー」と、構造化された知識による判断ミスからくる「エラー」と、どちらが深刻かについては、検討する余地があると思われます。


何の話をしているかと言えば、もちろんこれは上にも書いたように一般論です。以前私が関わったことのあるイベントに関して、差し支えない範囲で書いてもいいかもしれないとは思います。が、それはまた後日ということにしたいと思います。

センター試験に関するどうでもいいデータとその解釈

この土日は大学センター試験でした。関係者のみなさま、お疲れさまでした。

さて、一部報道によりますと、「センター試験トラブル続発 リスニング、93人やり直し」とのことです。

http://www.asahi.com/articles/ASG1L6HDRG1LTIPE01T.html

この「続発」したトラブル、実際どの程度ひどいものだったのでしょう。リスニングを例に考えてみたいと思います。(一部の皆さまには「またか」的なネタではありますが。)

トラブルの発生割合は、実際、何パーセントくらいだったのでしょうか。


こちらの報道によりますと、

http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1802H_Y4A110C1CC1000/

リスニングを受験した人は「51万9176人」です。そのうち、再開試験を受験することになった人は、「計93人」です。割合を計算するとどうなるでしょうか。パーセントは次の計算式で求められます。

93 ÷ 519176 × 100 =

計算すると、「0.02 パーセントより低い」となります。実際の数値は「0.01791300 ...」ですが、あまりに細かい数字を考えても意味がないので、まとめて「0.02 パーセントより低い」でいいでしょう。まさに「続発」です…か?


ここから言えることは、次の2つです。

○ リスニング試験のトラブルは、日本全国のどこかで、必ず発生する。

○ でも、その割合は極めて低い。


「必ず発生する」というのは、やむをえないことです。50万件を超える事象でトラブルが1件も発生しないとしたら、それは「素晴らしい」というより、「誰かが何かを隠蔽している」と考えた方がいいと思います。

そして、実際の発生率はきわめて低いわけです。

これよりはるかに事故の発生率が高くても、とくに報道されないことは世の中に色々ありそうです。(報道されないので分かりませんが。)

ちなみに、私の勤める大学で、リスニングの再開試験が過去にあったかと言えば、ありました。去年、私の担当した教室で。一緒に監督していた先生方が適切に状況に対応され、再開テストは問題なく実施されました。

まあ、そのような状況です。

大事なのは、以前どこかでよく目にした「正しくこわがる」ということなのだと思います。

ただしもちろん…

Bcc: 」で送るのがふさわしい時にはそうしてくださいませ。

どういう場合に「To:」に並べるのがよくて、どういう場合が「Bcc:」かは、あらためて書く必要はないと思いますので書きません。(というか今は時間が無い。)

ということでよろしくお願いします。

同じものを複数アドレスに送るように指定されているときの、メールの送り方について

「同じものを●さんと■さんに送ってください」と指定されたメールを送るときには、宛先(To: )に●さんと■さんのアドレスを並べて書いて送っていただけると、受け取る■の立場としてはとってもありがたいのです。

「●さん宛てのメール」と「■さん宛てのメール」を別便で送られると、受け取った■としては「これは●には届いていないな」と思って●に転送しなければならないことになります。その転送メールを受け取った●からは、「実は私のところにも届いていました〜っ!」という返信が来ることになります。これ、意外と面倒なのです。というか、何十通か受け取る予定になっているときにはすごく面倒です。そして面倒であるだけでなく、無駄だったりもします…

じゃあ転送しなければいいではないかというと、もちろんそうはいかないわけで、中には「送り忘れ」で■だけにしか送っていないこともあるわけです。なので転送しないわけにもいかない。

ということで皆さま、私あてのメールに限らず一般的な心構えとして、「同じものを複数アドレスに送るように指定されているときには、全部のアドレスをTo: に並べて書いて一通にまとめて送る」ということで、よろしくお願いいたします!

「金で買う」という表現

兵庫県議の問題発言・問題行動に驚き呆れているshunpeiです。こんばんは。

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201312/0006577546.shtml

ただ、今日は発言の内容ではなく、「金で買う」という表現についてメモしておきたいと思います。つまり、これはなぜ重複表現と感じられないのか、ということです。

何かを「買う」ときに買い手が差し出すものは「お金」またはその代替物に決まっています。これは「買う」の語彙的な意味の一部、ないしは「買う」の基盤になっているフレーム的な知識としての「商取引」の知識の一部になっていると推測されます。その証拠に、「〜で買う」の「〜」のところに「金」「お金」「商品券」「カード」「具体的な金額」以外のものを入れると不自然になります。物々交換に「買う」は使えませんし、物との交換によってではなく形のない労働の報酬として何かを手に入れるときにも、「3時間の労働で買う」とは言えません。「一生懸命働いて高級な車を買う」みたいな言い方はありますが、この場合の「て」は「で」とは別です。

つまり「買う」ときにさし出すのは「お金」に決まっているわけです。これは「おじさん」が「男性である」に決まっているのと同じ程度もしくは近い程度に決まっていると言えそうです。

「女のおじさん」は(性別に関する普通の見方のもとでは)矛盾表現です。物々交換を指して「醤油でソースを買う」という言い方も変です。これは並行していると思われます。

そして一方で「男のおじさん」は重複表現で、あまり自然ではありません。にも関わらず「金で買う」は普通に使われている表現です。私自身も不自然さは感じません。可能表現にした「金で買える」も同様に自然に流通している表現です。

ちなみにこの「金で買う」「金で買える」の「金で」は「カードで」「商品券で」などとの対比で使われているわけではありません。「カードで買う」「商品券で買う」は「現金で買う」と対立するものですが、「金で買う」とは対立しません。「カードで買う」「商品券で買う」「現金で買う」は結局どれも「金で買う」の一つのあり方でしかないわけです。

ということで、「金で買う」「金で買える」はなぜ重複表現と感じられないのでしょうか。

私自身はこれについてぼんやりとした仮説めいたものを持っていますが、今はまだあまりにぼんやりしすぎている状態です。もう少しきちんとした形になったら、書くかもしれません。

被害者意識の使役表現


「…私を、なぜなの、教会のいちばん後ろの席に、一人ぼっちで座らせておいて、二人の幸せ見せるなんて…」


http://www.youtube.com/watch?v=RXpyrX8Q3Gc


むかし非常に流行って一部で物議をかもしたこの曲に出てくる上の表現について、ひとこと言ってもいいでしょうか。


この文では使役表現を使うことで話し手の被害者意識(「被害妄想」とまでは言わないことにしますが)を表しているわけですが、それがどういう仕組みによるのか、ということです。




『言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学 (中公新書)』で扱われている、典型的でない使役表現の中に、


「望ましくない事態が発生するのを防ぐ責任がその人にあるのに、その人がその責任を全うしなかったため、そのような事態が発生してしまった」


というタイプのものがあります。

それを、「被使役者が話し手」という形で使うと、「話し手自身の、話し手自身にとって望ましくない行動の責任を、他者に帰属する」ということになって、被害者意識を表すことができる、ということでしょうか。

ということで。

この前出た本

本学関係者は研究棟1階の国際交流センターに行けば無料でもらえます。

学外のみなさまへの献本送付作業は遅れています。すみません…

『知覚と行為の認知言語学: 「私」は自分の外にある』

もうすぐ出る本

見本刷りが届きました。1〜2週間程度で書店にも並ぶと思われます。

本学関係者は刊行後、希望すれば無料でもらえるようになる見込みです。(現在審議中、かな?)

『知覚と行為の認知言語学: 「私」は自分の外にある』