どういうロボットを作るかに現れる…
先日
http://d.hatena.ne.jp/shunpei/20140627#p2
で書いたように、ロボット研究の目指すものは(少なくとも私の理解では)「人間の頭の働きについての構成論的な理解」です。あるいはもう少し一般的に見れば「ヒトのヒトらしさとは何かについての構成論的な理解」です。
ということでロボット研究者に関していえば、「どういうロボットを作るか」に「ヒトのヒトらしさ」についてのその研究者の仮説ないし見通しが現れることになります。
そして今、『ロボットの悲しみ』を読みながら、なおかつ『記号創発ロボティクス 知能のメカニズム入門』の内容をきわめてぼんやりした形で思い出しながら、私があらためて自分の頭の中で再確認しているのは、「関係論的なアプローチ」に基づいて作られるロボットと「個体能力論的なアプローチ」に基づいて作られるロボットとではずいぶん違うんだよなあ、ということです。
特に世界とのかかわりにおけるコミュニケーションの役割についての見方がずいぶん違います。
個体能力論的なアプローチでは、コミュニケーションは、世界との切り結びを自力で確保していける能力を持つ自己充足的な個体同士の情報ないし感情のやりとりということになります。これは極端な話、他者とコミュニケーションなんかしなくても(最低限のレベルであれば)世界の中で生きていくことができるということになりそうです。
それに対して関係論的なアプローチでは、コミュニケーションは生きていく上で必須ということになります。自力では世界との切り結びを維持していくことができない個体甲がいる、そのような個体甲と世界の切り結びに個体乙が他者として介入することで、その切り結びが適切な形で維持されていくことに寄与する、それにより個体乙は「他者(個体甲)にとっての意味ある他者」として社会的なニッチないし存在意義を獲得する、さらには個体乙にとっての「自己」すらもそのようにして獲得されるものかもしれない、そのようなことが複数個体間で相互に行われることで個体たちが生きていくことができ、同時に社会が成立する…関係論的なアプローチでは、個体が生存していく上でコミュニケーションが必須ということになるわけです。きっと。
そしてどちらがヒトの実態に合っているかといえば、それは言うまでもないかなと思います。もちろん今日のこのエントリーには私自身の考え方のバイアスが影響していて、そのためにそのような印象を与えるだけのものになっている可能性もあるわけですが。
唐沢かおり氏論考についての感想
例の人文知の本の話で、唐沢かおり氏の「心はいかに自己と他者をつなぐのか」についての感想です。
この論考は他者理解についての社会心理学の知見を概観的にまとめていて、心理学専門以外の人が大きな見取り図を得るにはとても適した文章だと思いました。
私が自分自身の関心との関係で特に興味深いと思ったのは、同じ経験をすることの意味です。人は誰かと同じ経験をしたからと言って、その経験にまつわる相手の気持ちが正確に理解できるわけではないということ、ただ、相手が自分と同じ経験をしていると分かっている場合には、相手が自分の気持ちを理解していると思いやすい、ということを示した実験研究が紹介されています。つまり、他人とのつながりを維持強化するものとして大事なのは、「分かってもらってるつもり」だということのようです。
私自身は『知覚と行為の認知言語学』で、他者理解においては「相手のことを分かっているつもり」が大事なのではないかとスペキュレーションで書いていたのですが、唐沢氏論考で言われているのは「(自分が相手を)分かっているつもり」とは反対の立場の、「(相手に)分かってもらってるつもり」が大事ということです。
この、私が考えたのとは反対方向の「理解されてる感」が大事というのは、後知恵バイアスを思いっきり作動させて今になって考えると、私も気づいてもおかしくはなかったのです。この文章を以前読んで大学の授業の教材にしたりもしてたわけなので。でもまあ、思い当たりませんでした。
ということで、実はこの辺、今抱えていて不良債務化している某原稿にも関わる話なので、もう少しちゃんと勉強しなければいけないと思っています。
理論言語学とロボット研究の鏡像関係
ふと思ったのですが、理論言語学(の一部)とロボット研究の研究者(の少なくとも一部)の興味の持ち方の推移というのは、鏡像関係にあると言っていい面があるような気がします。
ロボット研究をする人がどういう興味の持ち方からその道に進むのか、私は正確に理解しているわけではないのですが、テキトーなイメージとして、「鉄腕アトムとかドラえもんとかそういうのを見て「自分もああいうのを作ってみたい」という発想から始まる」「当初の問題意識は「モノづくり」ないしは工学系」という印象を私は持っています。しかしながら、(すくなくとも私の理解する限りでは)現在のロボット研究が目指すものは単なる(?)「モノづくり」ではなくて、「人間の頭の働きについての理解」です。ヒトの頭の働きつまり「認知」に関する研究において、一つのアプローチとして、「構成論的なアプローチ」つまり「作って動かしてみることで理解しようとする」という発想があります。そしてもう一方で「身体性の重視」つまり「ヒトの頭の働きは人が環境の中で他者やモノとかかわりながら生きる身体であるということを踏まえなければ理解できない」という発想があります。この二つの発想が交わるところにロボット研究があるわけで、そうするとロボット研究が目指す先にあるものが「人間の頭の働きについての理解」になるのは自然なことです。
ところで、「人間の頭の働きについての理解」を目指す学問は、もともとは人文学に入っていたわけです。哲学とか。
となるとどうなるかというと、「モノづくり」ないしは「工学系」の問題意識から出発したロボット研究者が、やがて、哲学などの人文系の研究に触れるようになる、ということが起こるわけです。
翻って理論言語学を見ると、どういうことになるか。言語学に興味を持つ人はどういう人かというと、(少なくとも「文系」と「理系」を分けて教育している日本の体制においては)「言葉が好き」から出発する人が多いのだろうと思います。その場合の「好き」は、実用的な観点からは「外国語を習得したい」「いろいろな興味深い表現を味わいたい」であり、もうちょっと学問的な(?)観点からは、まあ人文学的な興味なのではないかと思います。ところが理論言語学をやると、生成文法であれ認知言語学であれ「認知」の問題にぶち当たります。そして「認知」の研究である「認知科学」あるいはその一部としての心理学は、実験研究がメインです。脳研究とかと接点を持ったりするといわゆる「理系」と接点を持ったりします。さらに進むと「進化」の話に行ったりします。それは一方では比較認知科学とか進化生物学とかの話になるわけですが、他方では、そう、上に書いたようなロボット研究を含む構成論的なアプローチとかにつながったりするわけです。
となるとどうなるかというと、「外国語習得」とか「面白い表現」とかの人文学的な問題意識から出発した理論言語学者が、やがて、進化研究とかのいわゆる理系の研究に触れるようになる、ということが起こるわけです。
ということで鏡像関係かなあと思ったりするわけです。
そんなことを、言語学側の発言(関西言語学会 第39回大会のシンポジウム「言語理論と科学哲学」の藤田先生の話とか)と理系側の発言(『記号創発ロボティクス 知能のメカニズム入門』とか)を見て思ったりしたのでした。
というか前から思ってたかもしれないけど、あらためて思ったのでした。
他者に心を帰属すること(の一端)について
ずっと前にもどこかに書いたかもしれませんが…
自分の行動に何か不適切なところがあったときに、他者から「心構え」のようなものを批判されることがある。「いつまでも学生気分でいるんじゃない」とか、「いつまで若いつもりでいるんだ」とか、そんな感じで。
「いつまでも学生気分でいるんじゃないよ」と言われると、いったんは納得する(こともある)。しかし、振り返ってよく考えると、「自分はまだまだ学生だ!」と思っていたわけではなかった、ということに気がつく。
「いつまで若いつもりでいるんですか!」と言われて、心の中でつぶやく。「自分はまだ若いから」みたいに自覚して行動していたわけではなかったのだけど…
海外滞在中に日本国内では経験しないようなことに遭遇して、「日本にいるときと同じつもりで行動していると大変なことになるよ」と言われる。周りのものを見ながら「なにもかも日本と違うなあ」と感動しながら行動していたにもかかわらず、そのように言われる…
実際に発生していたのは、「学生っぽい行動」「若手っぽい行動」「日本国内と同じような行動」…そのような行動に対して、観察者は、その行動の原因として「心」を想定する。その「心」の内容は命題に似た形で表示されるものと想定され、「学生気分」「若い」「日本にいるときと同じ」のように表現される。
だが、「行動の原因として「心」を想定する」という素朴心理学的な発想に基づく観察者の発言は、実際には行為者の行動を説明するものとしては成立していない。
(少なくとも一部の)哲学者は、行動の原因として「心」あるいは「意志」「意図」などを想定する立場を積極的に棄却する。そして、私たちが行動の原因として素朴に想定する「意図」とは、実際には「事後的に語られるもの」でしかないという立場をとる。
(↑記憶だけに基づいて書いているので、かなり単純化してしまっているはず。)
このように、私たちが素朴に「意図」「意志」「心」として捉えるものを言語的なものに還元する立場に関して、私自身は納得していないわけだけれども、それについては、哲学者の行為論とか意図論とか、さらには身体論とか、もう少しきちんと勉強してからにしたいと思います。
続きはいつか、気が向いたら(♪)書きます。
ある事故対応マニュアル
実はしなければいけないお仕事がたくさんあるのですが、体調も脳調も不良なのでこの前の続きを書きますね。知る人ぞ知る某事故対応マニュアルについてのコメントです。
その事故対応マニュアルは先日書いたタイプのマニュアルの典型例みたいになっていて、作成者の方は「見える化」も怠りなくやっていらっしゃるにもかかわらず、関係者にとっては「つらい」「こわい」ものになっています。
そこで、そのマニュアルの背後にあると思われる原則を、私なりに忖度して書いてみようと思います。
だいたい次のような感じです。
○ 開始前に事故が発生した場合には当事者を全力でサポートする。
○ 開始後に事故が発生した場合、当事者に責任が無ければ補填措置をとる。
○ 開始後に事故が発生して、当事者に責任がある場合には、対応は次の2つ。
(あ)続行可能な場合には、自己責任としてそのまま続行させる。
(い)続行不可能な場合には、補填措置をとる。
こう書いてみると基本は単純で、それなりに合理的だとは思います。若干の例外はあるかもしれませんが、これでほぼ対応できると思います。
これが明示されていれば関係者の皆さんは気分的にとても楽になるのではないかと思っています。
事故対応マニュアルの書き方
まったくもってたいへん唐突ですが、私は以前から事故対応マニュアルの書き方に関して一家言あります。今日はそれに関して書いてみたいと思います。
以下に書くのは、あくまでも一般論です。というか、色々な事故対応マニュアルに適用可能であることを望みながら書きます。
大きなイベントが行われる時、大小の事故が発生することを想定して、あらかじめ詳細なマニュアルが用意されて配布されることがあります。マニュアルがあるのは大事なことです。それも、漠然としたものではなく、ある程度詳しいマニュアルがあるのはありがたいものです。
ですが、難しいのは、時にそれが、「詳しく書けば書くほど、現場で実行する人間が不安になる」というパラドクスに陥ることがあるらしいということです。それは典型的には、次の論理形式で記述されたマニュアルで起こります。
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○ 時点Aに事象Bが発生したら対応Cを実行してください。
○ 時点Dに事象Eが発生したら対応Fを実行してください。
○ 時点Dに事象Bが発生したら対応Gを実行してください。
○ 以下、これが延々と続く。
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このタイプのリストが与えられると、人は(というか、私の知っている範囲でのかなり多くの人が)、不安になります。「こんなにたくさん場合分けがあるのか」「覚えきれない」「現場でこれが発生したとき、うまく対応できる自信が無い」と。
場合によっては、このような不安があることをマニュアル作成者が認識していることもあります。それで、「分かりやすく」するために、対応をフローチャート形式で示したりします。「見える」化という奴ですか?
でも、実は「見える」化(?)では、不安は根本的には改善されません。
そもそも上の不安が、なぜ出てくるのかが問題になるからです。それは、私が推測する限りでは、次の理由によります。
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○ 対応の原則が示されていない。
○ この時点でこの事象が発生したらこのような対応を求めるのは、なぜなのか、が示されていない。
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だから現場の担当者は、「時点/事象/対応」の組み合わせを、膨大なリストの形で覚えるしかないわけです。それが簡単にできることであれば不安は感じないわけですが、実際は簡単ではないので、不安になるわけです。マニュアルが充実して詳しくなればなるほど、覚える項目が増えて、自信を失っていくというパラドクスが発生するわけです。
逆に、「この時この事象に対してこう対応するのはこういう原則に則っているからだ」ということが明示されれば、それに基づいて頭の中で知識が構造化されます。これは、事象発生時の対応を容易にするのではないかと想像されます。
知識が構造化された場合、現場で事象が発生した時の対応にそれが介入してくる可能性も、ゼロではありません。つまり、現場の判断ないし独断が介入しやすくなる可能性ということです。だから、マニュアル作成者に、「あらゆる関係者に対して厳密に同じ公平な対応がなされるようにしたい」という希望がある場合には、原理原則に言及することは好まれないかもしれません。
しかし、膨大なリストを処理するときに発生する「エラー」と、構造化された知識による判断ミスからくる「エラー」と、どちらが深刻かについては、検討する余地があると思われます。
何の話をしているかと言えば、もちろんこれは上にも書いたように一般論です。以前私が関わったことのあるイベントに関して、差し支えない範囲で書いてもいいかもしれないとは思います。が、それはまた後日ということにしたいと思います。
センター試験に関するどうでもいいデータとその解釈
この土日は大学センター試験でした。関係者のみなさま、お疲れさまでした。
さて、一部報道によりますと、「センター試験トラブル続発 リスニング、93人やり直し」とのことです。
http://www.asahi.com/articles/ASG1L6HDRG1LTIPE01T.html
この「続発」したトラブル、実際どの程度ひどいものだったのでしょう。リスニングを例に考えてみたいと思います。(一部の皆さまには「またか」的なネタではありますが。)
トラブルの発生割合は、実際、何パーセントくらいだったのでしょうか。
こちらの報道によりますと、
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1802H_Y4A110C1CC1000/
リスニングを受験した人は「51万9176人」です。そのうち、再開試験を受験することになった人は、「計93人」です。割合を計算するとどうなるでしょうか。パーセントは次の計算式で求められます。
93 ÷ 519176 × 100 =
計算すると、「0.02 パーセントより低い」となります。実際の数値は「0.01791300 ...」ですが、あまりに細かい数字を考えても意味がないので、まとめて「0.02 パーセントより低い」でいいでしょう。まさに「続発」です…か?
ここから言えることは、次の2つです。
○ リスニング試験のトラブルは、日本全国のどこかで、必ず発生する。
○ でも、その割合は極めて低い。
「必ず発生する」というのは、やむをえないことです。50万件を超える事象でトラブルが1件も発生しないとしたら、それは「素晴らしい」というより、「誰かが何かを隠蔽している」と考えた方がいいと思います。
そして、実際の発生率はきわめて低いわけです。
これよりはるかに事故の発生率が高くても、とくに報道されないことは世の中に色々ありそうです。(報道されないので分かりませんが。)
ちなみに、私の勤める大学で、リスニングの再開試験が過去にあったかと言えば、ありました。去年、私の担当した教室で。一緒に監督していた先生方が適切に状況に対応され、再開テストは問題なく実施されました。
まあ、そのような状況です。
大事なのは、以前どこかでよく目にした「正しくこわがる」ということなのだと思います。
同じものを複数アドレスに送るように指定されているときの、メールの送り方について
「同じものを●さんと■さんに送ってください」と指定されたメールを送るときには、宛先(To: )に●さんと■さんのアドレスを並べて書いて送っていただけると、受け取る■の立場としてはとってもありがたいのです。
「●さん宛てのメール」と「■さん宛てのメール」を別便で送られると、受け取った■としては「これは●には届いていないな」と思って●に転送しなければならないことになります。その転送メールを受け取った●からは、「実は私のところにも届いていました〜っ!」という返信が来ることになります。これ、意外と面倒なのです。というか、何十通か受け取る予定になっているときにはすごく面倒です。そして面倒であるだけでなく、無駄だったりもします…
じゃあ転送しなければいいではないかというと、もちろんそうはいかないわけで、中には「送り忘れ」で■だけにしか送っていないこともあるわけです。なので転送しないわけにもいかない。
ということで皆さま、私あてのメールに限らず一般的な心構えとして、「同じものを複数アドレスに送るように指定されているときには、全部のアドレスをTo: に並べて書いて一通にまとめて送る」ということで、よろしくお願いいたします!
「金で買う」という表現
某兵庫県議の問題発言・問題行動に驚き呆れているshunpeiです。こんばんは。
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201312/0006577546.shtml
ただ、今日は発言の内容ではなく、「金で買う」という表現についてメモしておきたいと思います。つまり、これはなぜ重複表現と感じられないのか、ということです。
何かを「買う」ときに買い手が差し出すものは「お金」またはその代替物に決まっています。これは「買う」の語彙的な意味の一部、ないしは「買う」の基盤になっているフレーム的な知識としての「商取引」の知識の一部になっていると推測されます。その証拠に、「〜で買う」の「〜」のところに「金」「お金」「商品券」「カード」「具体的な金額」以外のものを入れると不自然になります。物々交換に「買う」は使えませんし、物との交換によってではなく形のない労働の報酬として何かを手に入れるときにも、「3時間の労働で買う」とは言えません。「一生懸命働いて高級な車を買う」みたいな言い方はありますが、この場合の「て」は「で」とは別です。
つまり「買う」ときにさし出すのは「お金」に決まっているわけです。これは「おじさん」が「男性である」に決まっているのと同じ程度もしくは近い程度に決まっていると言えそうです。
「女のおじさん」は(性別に関する普通の見方のもとでは)矛盾表現です。物々交換を指して「醤油でソースを買う」という言い方も変です。これは並行していると思われます。
そして一方で「男のおじさん」は重複表現で、あまり自然ではありません。にも関わらず「金で買う」は普通に使われている表現です。私自身も不自然さは感じません。可能表現にした「金で買える」も同様に自然に流通している表現です。
ちなみにこの「金で買う」「金で買える」の「金で」は「カードで」「商品券で」などとの対比で使われているわけではありません。「カードで買う」「商品券で買う」は「現金で買う」と対立するものですが、「金で買う」とは対立しません。「カードで買う」「商品券で買う」「現金で買う」は結局どれも「金で買う」の一つのあり方でしかないわけです。
ということで、「金で買う」「金で買える」はなぜ重複表現と感じられないのでしょうか。
私自身はこれについてぼんやりとした仮説めいたものを持っていますが、今はまだあまりにぼんやりしすぎている状態です。もう少しきちんとした形になったら、書くかもしれません。